魏志倭人伝に書かれた邪馬台国がどこにあったのか? 倭人伝の新解釈と考古学的考察により、古代史の謎とされる邪馬台国の所在地を明らかにした新刊『倭人伝の新解釈 新邪馬台国論』発売。
『倭人伝の新解釈 新邪馬台国論』著者:坂本光久
これまでの長い論争にも関わらず、邪馬台国がどこにあったのか未だに結論が得られていない。その原因は、 誤った倭人伝の解釈に基づく議論が続けられていることにある。
邪馬台国畿内説は、博多湾岸の不彌国から南には水行が困難なことから南は東の書き誤りとして東に水行十日陸行一月で邪馬台国に至るとするものである。しかし、倭人伝には郡すなわち帯方郡より邪馬台国に至る水行十日陸行一月と記されている。不彌国を起点とすることは誤りで、水行十日陸行一月の起点は帯方郡である。 邪馬台国北部九州説は、伊都国をイト国と読み、伊都国を糸島に比定している。しかし、倭人伝には伊都国は戸数千余戸とされている。三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡、平原遺跡のある糸島が戸数千余戸の小国では到底在り得ず、考古学的知見と矛盾する。本書は矛盾のない魏志倭人伝の解釈により、邪馬台国の所在地を明らかにしたものである。
本書は、倭人伝の記述に従い古代の邪馬台国へのルートを辿り、矛盾のない倭人伝の解釈により、邪馬台国の所在地を明らかにしたものである。倭人伝は、郡より邪馬台国に至る一万二千余里水行十日陸行一月と記されている。水行の起点は帯方郡であり末蘆国までの一万余里が水行十日である。又、陸行二千余里の起点はこれまで唐津とされて来たがこれは誤りで、陸行の起点は東松浦半島先端の呼子である。糸島は倭奴(イト)国で後漢の光武帝より西暦57年、金印を拝受した倭奴国である。井原鑓溝遺跡は金印 を拝受した倭奴国の王墓である。水行二十日、戸数5万余戸の投馬国は水行のみで到達が可能な福岡平野で、戸数7万余戸の邪馬台国は筑紫平野である。
本書では、この外、これまで謎とされて来た前方後円墳や前方後方墳の設計思想、魏から贈られた銅鏡百枚、箸墓古墳の被葬者、日本書紀の編年などについても独自の説を提示した。
本書を読むことによって、これまで古代史の謎とされて来た多くの事柄について疑問が解消されることを期待しています。
- 著者プロフィール
坂本光久(さかもと・てるひさ)
熊本県山鹿市出身
1968年 九州大学工学部応用化学科卒業
1970年 九州大学大学院修士課程修了
同年、東ソー株式会社入社。研究開発部門に所属
2005年 定年退職
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書籍:倭人伝の新解釈 新邪馬台国論
著者:坂本光久(さかもと・てるひさ)
出版社:パレード
発売日:2021年12月15日
ISBN:978-4-434-29617-8
仕様:四六判/並製/240ページ
価格:1,980円(税込)